ジャッジとプレイヤーとDQと
2010年11月29日 TCG全般 コメント (1)1.はじめに
私は適用度の高いイベントにあまり出場したことがなく、事実上DQとは縁遠いのですが、自分の中で整理しきれなかったので書いてみます。
http://www.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtg/daily/eventcoverage/gpflo10/day1#16
GPフローレンスでの斎藤プロのDQについてです。
2.情報公開について
私が斎藤プロに対して思い入れがあり、ファンであることは以前にも日記で書きました。
http://cramcram.diarynote.jp/201007081306475569/
今回の件について、斎藤プロはいち早くツイッター上で失格裁定を受けたことと、そのことについての悔しさ(悩み?)を公開し、週末のうちにブログにまとめが掲載されました。
http://harurumtg.blog41.fc2.com/blog-entry-155.html
まず、このスピード感、自らにとっての不利益を公開する姿勢を、私は尊敬します。プロとして、人として、身を切るような痛みに耐えつつも周囲の人と自分のために不利益な事実を公開し、率直な気持ちを語る。中々出来ないことだと思います。
3.ジャッジの判断
しかし、残念ながら罪は罪、裁定は裁定として残ります。
斎藤プロのプレイングが故意であったかどうかは彼の証言ではなく、客観的な状況から判断されるべきであり、プレイングの様子がビデオに残っていたわけではない以上、私たちはジャッジの判断を尊重するほかありません。
もちろん、ビデオに残っていたからと言ってジャッジの判断が間違っているというわけではありません。
ジャッジの判断をいたずらに責めることは「本気の頭脳競技」であるMTGというゲームを貶めることに繋がり、引いてはMTGファン、プレイヤーとしての自分の足元を崩すことに繋がりかねません。
ジャッジだって間違えることはあるでしょうが、その場で最善の判断をしているはずですし、彼らを信用しなければ、ゲームとしての公平性を担保することはできません。
MTGが競技でいられるのはジャッジがいるからで、これまでたくさんのミスの積み重ねと改善を続けてきたからこそ、MTGは20年近くゲームとして残ってこれたのだと思います。
そう考えると、今回、斎藤プロがDQを受けたことは「正しかった」ということになります。
4.何が罪か
では、斎藤プロは「罪を犯した」のでしょうか。
斎藤プロが自身のブログで書いことをすべて信じれば「冤罪」です。
DQという裁定はプロプレイヤーにとっては生活に関わり、名誉と経歴を傷つけることです。人生を奪うことにもなりかねません。
以前の日記でははぐらかしましたが、私は斎藤プロが最初に出場停止になった時、「あの人、悪いことしてたんだ」と思いました。「だから勝っていたんだろう」そして「罰があたったのだろう」と。
出場停止になった際の記事を読む限り、斎藤プロは自白しています。それもあってか、あの事件は「自他共に認める罪」として、斎藤プロの経歴に一筋の影を落としています。
一般のプレイヤーであった自分は斎藤プロを軽蔑しました。
冤罪でも同じことが起こりうるのです。
しかし、冤罪だったとしても裁定が間違っていたわけではないのは前述のとおりです。
これを罪と呼んでいいのか、罪と呼んではいけないのか、私にはわからないのです。
私は今回の事件については「運が悪かっただけで罪ではないだろう」と思っています。私はその後の斎藤プロの活躍と人柄を一ファンとして見ており、その恩恵にも(晴れる屋の客として)あずかっているからです。あの斎藤プロが故意でそんなことをするわけがないと信じているからです。
このように変化した自分自身の判断を、私は恐ろしく感じます。
同じことをしていたのに、「Aさんだから罪」で「Bさんだから罪ではない」というのでは、不公平です。しかし、明らかな不公平を私の感情は許容しています。
罪をどうとらえるかについて、どれだけ考えても答えは出ません。
5.どのように判断すればいいのか
それでも、どう判断するかについては、答えがあります。
「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉があります。
これを私は、「罪は事実で判断し、人格は生き様で判断すべきである」と読み替えます。
つまり、裁定は裁定として尊重し、そんなことで斎藤プロの人格的評価が曇るわけではないと信じていればいいのです。
斎藤プロは、結果はもちろん、その生き様で周囲の評価を変え、幸福をもたらしてきた方です。
再来週に迫った世界選手権でも、結果と共にその人柄で、今回の件を吹き飛ばすほどの評価を得ていくと思います。
そして私自身もMTGを楽しみ、プレイヤーもジャッジも尊重して、周囲のハッピーを高めていけるように努力していきたいと思っています。
私は適用度の高いイベントにあまり出場したことがなく、事実上DQとは縁遠いのですが、自分の中で整理しきれなかったので書いてみます。
http://www.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtg/daily/eventcoverage/gpflo10/day1#16
GPフローレンスでの斎藤プロのDQについてです。
2.情報公開について
私が斎藤プロに対して思い入れがあり、ファンであることは以前にも日記で書きました。
http://cramcram.diarynote.jp/201007081306475569/
今回の件について、斎藤プロはいち早くツイッター上で失格裁定を受けたことと、そのことについての悔しさ(悩み?)を公開し、週末のうちにブログにまとめが掲載されました。
http://harurumtg.blog41.fc2.com/blog-entry-155.html
まず、このスピード感、自らにとっての不利益を公開する姿勢を、私は尊敬します。プロとして、人として、身を切るような痛みに耐えつつも周囲の人と自分のために不利益な事実を公開し、率直な気持ちを語る。中々出来ないことだと思います。
3.ジャッジの判断
しかし、残念ながら罪は罪、裁定は裁定として残ります。
斎藤プロのプレイングが故意であったかどうかは彼の証言ではなく、客観的な状況から判断されるべきであり、プレイングの様子がビデオに残っていたわけではない以上、私たちはジャッジの判断を尊重するほかありません。
もちろん、ビデオに残っていたからと言ってジャッジの判断が間違っているというわけではありません。
ジャッジの判断をいたずらに責めることは「本気の頭脳競技」であるMTGというゲームを貶めることに繋がり、引いてはMTGファン、プレイヤーとしての自分の足元を崩すことに繋がりかねません。
ジャッジだって間違えることはあるでしょうが、その場で最善の判断をしているはずですし、彼らを信用しなければ、ゲームとしての公平性を担保することはできません。
MTGが競技でいられるのはジャッジがいるからで、これまでたくさんのミスの積み重ねと改善を続けてきたからこそ、MTGは20年近くゲームとして残ってこれたのだと思います。
そう考えると、今回、斎藤プロがDQを受けたことは「正しかった」ということになります。
4.何が罪か
では、斎藤プロは「罪を犯した」のでしょうか。
斎藤プロが自身のブログで書いことをすべて信じれば「冤罪」です。
DQという裁定はプロプレイヤーにとっては生活に関わり、名誉と経歴を傷つけることです。人生を奪うことにもなりかねません。
以前の日記でははぐらかしましたが、私は斎藤プロが最初に出場停止になった時、「あの人、悪いことしてたんだ」と思いました。「だから勝っていたんだろう」そして「罰があたったのだろう」と。
出場停止になった際の記事を読む限り、斎藤プロは自白しています。それもあってか、あの事件は「自他共に認める罪」として、斎藤プロの経歴に一筋の影を落としています。
一般のプレイヤーであった自分は斎藤プロを軽蔑しました。
冤罪でも同じことが起こりうるのです。
しかし、冤罪だったとしても裁定が間違っていたわけではないのは前述のとおりです。
これを罪と呼んでいいのか、罪と呼んではいけないのか、私にはわからないのです。
私は今回の事件については「運が悪かっただけで罪ではないだろう」と思っています。私はその後の斎藤プロの活躍と人柄を一ファンとして見ており、その恩恵にも(晴れる屋の客として)あずかっているからです。あの斎藤プロが故意でそんなことをするわけがないと信じているからです。
このように変化した自分自身の判断を、私は恐ろしく感じます。
同じことをしていたのに、「Aさんだから罪」で「Bさんだから罪ではない」というのでは、不公平です。しかし、明らかな不公平を私の感情は許容しています。
罪をどうとらえるかについて、どれだけ考えても答えは出ません。
5.どのように判断すればいいのか
それでも、どう判断するかについては、答えがあります。
「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉があります。
これを私は、「罪は事実で判断し、人格は生き様で判断すべきである」と読み替えます。
つまり、裁定は裁定として尊重し、そんなことで斎藤プロの人格的評価が曇るわけではないと信じていればいいのです。
斎藤プロは、結果はもちろん、その生き様で周囲の評価を変え、幸福をもたらしてきた方です。
再来週に迫った世界選手権でも、結果と共にその人柄で、今回の件を吹き飛ばすほどの評価を得ていくと思います。
そして私自身もMTGを楽しみ、プレイヤーもジャッジも尊重して、周囲のハッピーを高めていけるように努力していきたいと思っています。
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